ガイアの夜明け 感想

『「3.11」を忘れず 今を生きる(ガイアの夜明け20周年企画第11弾)』【今日の「ガイアの夜明け」感想】

今日のガイアを3行で

  • 東日本大震災から12年という事での特集でした
  • 女川で語り継がれていく東日本大震災がありました
  • 双葉町に新たな雇用を創出するプロジェクトが進んでいました

※この記事はガイアの夜明けを見ながら自分のメモ書き的な感じで書いている記事です。放送内容を引用してます

東日本大震災から12年

3月11日の地震から12年が経ちます
死者15,900名 行方不明 2523名

ガイアは震災直後から復興に向けて立ちあがった人たちを追いかけてきました。

女川町の蒲鉾屋さんの髙政

高橋政則さんが社長。
被害が少なかったというのもありすぐに工場を再開しました。
地元の人に希望を与えるためでもありました。
最初に製造した物は避難所の方々にふるまっていました。

あれから12年

髙政は今も女川にあります
会長となった高橋さん。73歳
会社を懸命に守り抜きました。

生き残った会社が率先して前を向いている姿を見れば
我々もやろうという気持ちになってくれるんじゃないか

男手一つで3人の娘を育てる父

酒屋を経営してながら男手1つで3人の娘を育てていた方。
父と3人の幼い娘を襲ったのが福島第一原発の事故。
いたのは原発から僅か7kmの距離
すぐに避難生活へ
幼い娘達を必死に守っていました

あれから12年…

1月1日
そこにいたのは成長してる娘達の姿でした。

さらに2月には還暦の祝いと長女からの手紙が届きました

感無量とのことでした。

これからどうなるのかなと。
あっという間だった今思えば。
切り替えて第二の人生をやっていきたい

ガイアはあの日を忘れず今を生きる人たちの闘いを追いました

宮城県南三陸町

津波で壊滅的打撃を受けた街です。
今は海を隔てるように堤防が作られ
住宅地は高台へと移転

人口11956人(震災前の7割)

南三陸町にあるのが50年続く南三陸ホテル観洋

見晴らしの良い244室の客室があり三陸の海の幸が楽しめ海を一望出来る露天風呂が自慢の宿です。

女将阿部さん60歳

あの日女将はこの場所から津波を見ていたそうです。

土煙が街を覆って津波が襲っていくという状態だった
海を見ると街が流されていくような状態で…

震災から数日後のホテルは館内を見ると大きな損傷無し。
津波は2階まで到達したがロビーがある5階から上は被害がなかったそうです。
公の避難場所にはなっていなかったが避難してきた人がいたので民間避難所として被災者を受け入れたそうです。
南三陸の人たちを支え続けました。

朝のお見送り

女将の阿部さんが毎日欠かさず見送るのがホテルから出発する1台のバス
1時間で南三陸町を案内する
ホテルの従業員伊藤さんがガイドを務める

2011年3月11日
東日本大震災という大きな地震と津波で何もかも変わりました

語り部バスは震災の翌年から開催
2012年からほぼ毎日運行
あの日の出来事を語り継いできました。

伊藤さんも被災した一人
当時の自宅の写真
冷蔵庫が天井に刺さっていました。

前とは全然景色が変わりました
左右家が建っていて人が住んでいた場所
あの日の朝まで朝ご飯食べて行ってきますと言っていた

44万人が乗車して語り継いできました。

3月11日に帰ってあの日のことを思い出そうとする。
辛いことは辛いが大事なことがいくつもあるから
伝える事は簡単では無いけど続ける事に意味がある

この日伊藤さんの話に耳を傾けるのが
松下さんでした。

バスの車窓からは被災の象徴旧防災対策庁舎。
回りは整備されたがこの建物だけは震災を忘れないように残されました。
ここへ来ると必ず紹介する物があります。

ほんのちょっとですけど未希さんの声もお聞かせ出来ます

遠藤未希さん(24) 防災無線で避難を呼び続けました。

更なるエピソード

もう一人三浦毅さん遠藤さんの上司。
代わる代わるマイクを握って町中に避難を呼びかけた方。
その声を聴いて高台に逃げた人は足すかった。
2人は避難できずにこの場所で津波に流されました。
遠藤さんと一緒に呼びかけた三浦さん。
忘れて欲しくない
三浦さんは現在も行方不明です。
地元の野球部のコーチをしていた
教え子達が見つからないので野球のシャツを置いた
持ってきてコーチ早く帰ってきてねと
知っていた方なので早く帰ってきて欲しいなと
辛さ悲しさはあるけど向き合って行くのも大事
向き合うには時間が必要
最初からこんなに話せたわけじゃない

次に向かったのが言葉にしないと素通りしてしまう場所

この左側には思い出があった小学校があった
学校事飲み込まれたが戸倉小学校はみんな助かった
当日先生の判断で学校の奥情じゃなくて高台に避難した
守れた物があること奪われない失わないそれが出来るのも人
これから先未来に向かって伝えて行きたいこと

漏れがあるかも知れませんが伊藤さんの言葉って凄く重要だと思ったのでつらつら引用させて頂きました。
聴きながら涙ぐんでる自分がいましたし。はい。

南三陸にあるさんさん商店街

2017年に誕生延べ330万人が訪れる復興の象徴です。
そこに1台のStreetピアノがあります。

この日引くのは松下さん
松下さんの作ったアカツキ(挿入曲)弾いてました

語り部の活動は広がってました。

高校生が乗客の時も

一本の鉄骨がねじれるように曲がっている
一番大事なことは当日327名+犬2匹が助かっていること

津波の高さ破壊力を伝えると共に助かった命があることも伝えていました。
聞いていた高校生も「風化されていく震災を若い自分たちが伝えて行かないと…」と応えてました。

更なる語り継ぐ場所を探す

女将は更に語り継ぐ場所を探していました

気仙沼市
屋上に避難した30人が助かった命の螺旋階段

夢中で駆け上がったんだよねここを
地域の人たちの命を守るためにも
災害の発生していないところの人に知ってもらいたい

1月上旬
女将が動き始めました
着いたのは高台の一軒のお店

サトー園芸
2012年から高台で営業再開

元々の店は街の中心にありましたが津波で流されました。

女将が経験を伝えて欲しいと依頼していました。
街の人たちに語り部になって欲しいというお願いです。

語り部のスタッフが話すのも一人一人のドラマ
商店の人たちの一人一人のドラマ。
声を広く皆に届ける場を作りたい

佐長商店

店主の佐藤さんが迎えてくれた
2018年から現在の店舗で営業再開。
酒屋さんです。

佐藤さんが見せてくれたのは震災前の写真
賑やかな場所にあったそうですが川のすぐ側にあったそう。
家族は無事だったが代々続いた店は流されてしまいました。

この方にも語り部にと伝えます。

私たちのこういう出来事は真のストーリーですから
経験が経験が浅い人にするとその話が宝物なので…
とはいえ辛い経験阿部さんの思いは伝わるか

2月下旬ホテル観洋
声をかけたお店の人たちが集まっていた
この日ホテルで語り部座談会を開くことになった

会場のロビーに宿泊客が続々と
中には大学生のグループも
30人以上が集まりました

サトー園芸のご主人

ハサミ一つ無かったので早く再開したいと思っても
なかなか再開できなかった
皆真剣に耳を傾けています

佐長商店

震災前の建てた倉庫と全部商品
全部流されて保険もは言って無くて倉庫のローン店のローン両方払い続けている
今の所で頑張っているがなかなか先が見えない
生きていかなければならないし後10歳若かったらもっと働けるのに
そんなこといってもしょうがないので10年先まで働こうとしている

1時間の座談会
阿部さん反応が気になります

心が苦しくなった凄いです恐れを乗り越える気持ち
強いなと
その立場だったらそこまでいけない

翌日
座談会を聞いていた大学生が来たのが佐長商店
自然と当時の話に
「皆に助けられてこられた」
若者達も「インスタなどで広げます」と応えてました。

こうしてまた新たな世代へと語り継がれていきます。

浅野撚糸の挑戦

岐阜県安八町
あの日を忘れず今を生きる人

浅野撚糸の浅野さん

撚糸

合わせた糸をねじる撚りをかける作業
5年かけて独自技術を開発しました。

それで生み出されるのが空気を含んだふんわりとした糸
軽いタオルなどに使うと水をよく吸う

浅野さん
スーパーゼロと名付けた

やってきたのは観光バス
客が向かったのは浅野さんの工場にあるショップ
スーパーゼロで作られたタオルがお目当て

エアーかおる

一般的タオルの1.5倍の吸水力

これ使ったら他のタオル使えないぐらいだそうです。

一時は倒産の危機にあった浅野撚糸はタオルに救われました。
今や年商20億円

2022年11月
観光バスに浅野さんの姿

社員旅行ディズニーや温泉などを巡る
重要な目的地双葉町

福島第一原発の城下町7000人が暮らしていました。
2011年の原発事故で全町避難
以来11年半にわたり住民ゼロの街です。

バスが到着したのは建設中の建物

浅野さん
双葉町に新工場を建設していました。

屋根の上にはSUPER ZEROの文字

糸の名前を付けた工場でした。
浅野さんの案内で工場の中へ

撚糸工場

岐阜本社工場の3倍の広さ

何故岐阜の会社が双葉町に工場を?

ある想いが

2011年の災害から何も出来なかった
駆けつけることすらしなかった

浅野さんは福島大学出身
福島は青春を過ごした場所だった

行かなかったという程度の自分だったんだなと
自責の念が心の奥底にあって
12年越しの恩返し

改めて双葉町を歩く浅野さん

2022年一部で避難指示解除
住むことが出来るようになった

今だ街の85%が帰還困難区域のままです。

現在の双葉町の住人60人
住民の方

双葉の人に帰ってきなと言っても帰ってこない
別なところから色々な人が入ってきて新しい双葉町が出来ても良いと思う

浅野撚糸の進出を期待しているのが双葉町の町長

住民からは戻っても仕事無いでしょう
まず雇用を作ろう。
製造業が一番雇用を期待できる

双葉町の希望を背負う浅野さん
今回のプロジェクト30億円の投資

こんな大勝負をこの年でやるなんて思いもしなかった
退路を断っているから

11月岐阜本社スーツ姿の一団が
今後を占う大事な会議。
来たのは11の金融機関の方々でした。融資している金融機関担当者。

決算がかなり厳しかったのです。
減収減益となりました。コロナの影響も大きいです。
30億を投資するプロジェクトを抱える中金融機関の判断を仰ぐことに

ただ銀行からは福島プロジェクトは日本中が注目しているので…と言う話が。
会社の今後は福島プロジェクトの成否に掛かっている

12月双葉町建設途中の新工場にやってきた浅野社長
社員旅行の時は何もなかったフロアに機械が入り試運転してました。

撚糸

湿度温度が仕上がりに影響します。
同じ物を作る事が出来るかがポイント。

試行錯誤してほぼ同じ物を作れる様になっていました。

双葉工場

年間500トン生産予定

売り先を探さないといけないです。

2月中旬ベトナム

浅野さんの姿

スーパーゼロの生産良が倍になるので海外に販路を求めてました。
ホーチミンから2時間にある工場に乗り込みました。

シグマ社

ベトナム最大のタオルメーカー
ベトナムは世界最大の衣料品輸出大国
双葉の糸を売り込みます。

一代でベトナム最大のタオルメーカーを作った「ヤン」さん

早速糸を見て貰います。
他に真似できない糸だとアピール。

ヤンさんの評価は上々でした。

そして帰ってきたのは日本語でした。
ヤンさんは日本に留学繊維メーカーで勤務経験があります
ならばと浅野さん想いをぶつける

これを切っ掛けに更に双葉の復興も広めて欲しい
糸も広めて頂きたい
(ヤンさん)
是非このプロジェクトに参加させて頂きたい
福島の復興のため使って僕たちの工場で製品にして世界中に売っていこうと思う

快諾を得ました

日本に戻り福島へ。

工場にはショップ、カフェも作るそうです。
人が集まる場所にしたいと考えてました。

交流人口の拡大しか双葉を救う策はないと考えてました。
外から来る人を増やしたい浅野さん
それには避けられない場所がありました。

2月下旬福島第一原発へ。

環境省の職員が案内してくれます

大熊町双葉町にまたがる形で第一原発があり大きく囲むように中間貯蔵施設があるそうです。

中間貯蔵施設

除染で出た土壌や廃棄物などを一定期間保管する施設。
事前予約すれば少人数で月2回公開してるそうです。

浅野さんが見ている日の線量1.4μSv/h

2日間いると胸のレントゲン1回分の被曝量となるそうです。
そんなもんなんですねぇ。
すぐに健康影響が出る場所ではありません。

ここに来れば誤解が解けそうだと浅野さんは考えてました。

第一原発今はどうなっている?

2月下旬ガイアのカメラが入りました

殆どの作業員が作業服で歩いていました

事故から2ヶ月の映像は防護服が必須だったが…
12年経つと敷地内の96%が一般の服で大丈夫

水素爆発の建屋も事前申請があれば限定公開されているそう。

正面に見えているのが1号機。
屋根が水素爆発で壊れていました。

廃炉作業が粛々と行われています。
80メートル手前から見ることが出来ました。

案内してくれている木元さん
入社以来原発に携わっているそうです。

廃炉の現状を見て貰いたいか?

現状をありのまま見て貰いたい
今どうなっているのか心配だと思う
廃炉作業は日々進捗している
目で見てもらい伝えるのが一番分かって貰えるのでは

浅野さん
これらを広く公開して多くの人に現地に来て貰う為に提言してました

世界中の人が福島第一原発を見て見世物ではなくて
見て貰ったら分かって貰える気がしたので是非公開をして貰えないか
(東電担当者)
多くの人に見て貰いたい思いは同じ
多くの人に見て貰える仕組みは何とか作りたい
原発や中間貯蔵施設の公開に向けて検討をすることに

2月下旬
建設中の工場に多くの人が来てました。
社長の浅野さん
4月完成前に地元にお披露目したいと内覧会を開いた

一際賑わう場所がありました。

双葉の糸を使ったタオルの即売会
飛ぶように売れていました

接客するのは入社を決めた地元高校生
地元採用の12人が働くそうです。

4月にはカフェも出来る予定。

双葉の街集まるところがないので使って貰いたいそうです。

浅野さん明日への一歩を踏み出しました。

ドキドキしている
支持も頂いて
(きてよかった)と聞かれ(うなづく)
ここで後悔はないでしょう

是非このプロジェクトは成功して貰いたいなと感じました

まとめ・感想

最初の宮城県の話では涙がにじんでしまいました。
私12年前は仕事してる時に揺れて。
職場の人となんだこれ酷いぞとなって。
そのときだけは仕事の手を止めてテレビを全員で見ました。
津波の瞬間が放送されていて。
これはヤバイと。

皆すぐ家に帰りなさいとなりました。

色々と不安で過ごしましたねぇ。
あの日金曜日だったので土日休みででしたし。

私の身内は道内勢が大半で道外にいる人も無事がすぐ分かったので直接的な影響はなかったのですが。

あのショッキングな出来事は一生忘れません。

まだ思い出せますから。
自身の瞬間とテレビを見ていたこと。
普段厳しい上司の人たちもそのときばかりは食い入るようにテレビ見て。
言葉を失ってましたし。
余震がガンガン来ますし。

私ですらまだ語れるくらいですからね。

実際に被害に遭われた方の言葉は更に重いですし。
その言葉を聞くと思い出して涙も出てくるというものです。

とても重要な取り組みだと思いました。

福島原発の今も知ることが出来ましたし色々有意義な内容でした

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